さて、1924年3月25日、山崎はどんな望遠鏡で賢治に天体を見せてあげたのだろう?
天文月報には、下の写真が載っていました。
山崎が考え出したコメットシーカーですね。20cmでしょう。
でも、この彗星捜索用望遠鏡は、賢治が来所した当時は完成していなかったのでは?と思います。山崎は水沢に赴任する前に、ガラス材を使った主鏡の研磨方法を天文月報に連載していました。ルーツはカルフォルニア大在学中に学んだ技術で、そのまたルーツはイギリスに至るようです。
でも、天門月報に記事を書けるってことは技術は完成していて、その時の鏡面もあったはずです。
でも、水沢赴任直後から山崎は職員に太陽観測をさせていますので、メッキを剥がして太陽専用に改造したのかな? コメットシーカーは赴任後の2~3年で完成したのかな? ここは良く分かりませんでした。でも、この彗星儀で賢治は☆を見た可能性は少し有ると思います。
この写真の奥に10cmくらいの経緯台が有ります。
これは山崎が使っていた望遠鏡ではないでしょう。と言うのは、接眼部が左に出ています。山崎は米国で望遠鏡に親しんだので、あちら式に接眼部は全部右側に出るように作ってます。だから、この10cm経緯台は他の職員が使うものでしょう。
それと、こっちの望遠鏡はファインダーがありません。ひょっとすると、これが職員用の太陽専用望遠鏡だったのかもしれません。ハーシェルプリズムは鏡筒内部に入れてあるのかもしれません。
特筆は、この写真は緯度観測所の宿舎で撮られたってことです。なぜなら、この望遠鏡の有る場所はスライディングルーフの気がします。で、当時の緯度観測所の官舎の写真は鮮明なのがないですが、
右側の官舎から、さらに右側に伸びてる屋根が認められます。
また、先の池田徹郎が描いた当時の緯度観測所のパノラマ風水彩画が残っています。その一部ですが、
この中央が構内官舎、その建物の右側に不自然に伸びてる小屋みたいなのが有ります。これがスライディングルーフだと思われます。
山崎は、官舎に自作のスライディングルーフを追加したんですね。(とんでもねーやつですな。)
当時は、水沢緯度観測所の望遠鏡は大抵がスライディングルーフに入っていたらしいので、官舎に自作で追加したってのは、まぁ有り得る話しでしょう。
でも、赴任して1年しか経ってなかったので、このコメットシーカーと太陽専用望遠鏡が完成していた可能性は低いと思います。それどころか、このスライディングルーフが出来ていたかも分かりません。
やっぱり、赴任するときに持って来た私物の10cm屈折を出したのだろうと想像します。
(続く)
宮沢賢治は、誰のどんな望遠鏡を使ってアルビレオを見たのだろう?
Re: 宮沢賢治は、誰のどんな望遠鏡を使ってアルビレオを見たのだろう?
さて、そろそろ自分の独り語りも終わりになります。
山崎が水沢に赴任してきた1年目に賢治が尋ねてきてますので、20cmのコメットシーカーは未完成。京大時代に作った鏡面は太陽専用望遠鏡になってたとすると、緯度観測所の仕事に絶対に支障が出ない望遠鏡となると、この写真にあるのが山崎の私物の10cm屈折だと思います。 後ろの建物は山崎記念天文台。場所は四国の佐川町ですね。鏡筒の前の方に黒くて四角い箱が縛り付けてあるのが分かります。山崎は良く天体写真を撮っていたということから、自作の天体カメラでしょう。フィルムではなくて、当時ですから写真乾板でしょうね。星野次郎氏の本にも似たようなカメラが鏡筒に(自転車のゴムバンドで)縛り付けられてるのが掲載されています。
上の写真を拡大すると、 メガネかけてませんが、昭和7年の緯度観測所での記念写真の頃の顔に近いので、やはり40代の頃だったのではと思います。
後ろの望遠鏡は、元々は三脚に付ける構造になってますがピラーに取り付けてあります。駆動をモーターに改良しているような気がします。
ところで、仮にこの写真が昭和7年頃だとすると、賢治が亡くなったのは昭和8年9月21日なので同じ頃です。賢治は緯度観測所を訪ねてから、わずか9年ほどで亡くなっているのです。
関勉氏の話では、山崎は戦争の疎開のために四国の故郷に戻ったように書いてましたが、本当は愛娘の政子さんが病気で亡くなったためにがっくりしたのが原因の様ですね。1941年に政子さんがチフスで亡くなり、翌年から仕事を辞したいと言っていたようで、結局1944年に認められて四国に帰郷したようです。この当たりは職場で仲良しだった池田が天門月報に寄稿しています。
https://www.asj.or.jp/geppou/archive_op ... 195908.pdf
四国では、彗星の軌道計算や自分の望遠鏡で天体観測をされていたのは、関勉氏の書いている通りのようです。
亡くなられたのは1959年5月31日です。
この望遠鏡が何処のメーカーの何て望遠鏡なのか、まぁ同じ四国のガラクマさんなら御存じかと・・・・できる事なら、せめて同じ口径と焦点距離の屈折、接眼レンズはもちろんハイゲンスでしょう。そんな望遠鏡でアルビレオを見てみたいなぁ、と思います。
山崎が水沢に赴任してきた1年目に賢治が尋ねてきてますので、20cmのコメットシーカーは未完成。京大時代に作った鏡面は太陽専用望遠鏡になってたとすると、緯度観測所の仕事に絶対に支障が出ない望遠鏡となると、この写真にあるのが山崎の私物の10cm屈折だと思います。 後ろの建物は山崎記念天文台。場所は四国の佐川町ですね。鏡筒の前の方に黒くて四角い箱が縛り付けてあるのが分かります。山崎は良く天体写真を撮っていたということから、自作の天体カメラでしょう。フィルムではなくて、当時ですから写真乾板でしょうね。星野次郎氏の本にも似たようなカメラが鏡筒に(自転車のゴムバンドで)縛り付けられてるのが掲載されています。
上の写真を拡大すると、 メガネかけてませんが、昭和7年の緯度観測所での記念写真の頃の顔に近いので、やはり40代の頃だったのではと思います。
後ろの望遠鏡は、元々は三脚に付ける構造になってますがピラーに取り付けてあります。駆動をモーターに改良しているような気がします。
ところで、仮にこの写真が昭和7年頃だとすると、賢治が亡くなったのは昭和8年9月21日なので同じ頃です。賢治は緯度観測所を訪ねてから、わずか9年ほどで亡くなっているのです。
関勉氏の話では、山崎は戦争の疎開のために四国の故郷に戻ったように書いてましたが、本当は愛娘の政子さんが病気で亡くなったためにがっくりしたのが原因の様ですね。1941年に政子さんがチフスで亡くなり、翌年から仕事を辞したいと言っていたようで、結局1944年に認められて四国に帰郷したようです。この当たりは職場で仲良しだった池田が天門月報に寄稿しています。
https://www.asj.or.jp/geppou/archive_op ... 195908.pdf
四国では、彗星の軌道計算や自分の望遠鏡で天体観測をされていたのは、関勉氏の書いている通りのようです。
亡くなられたのは1959年5月31日です。
この望遠鏡が何処のメーカーの何て望遠鏡なのか、まぁ同じ四国のガラクマさんなら御存じかと・・・・できる事なら、せめて同じ口径と焦点距離の屈折、接眼レンズはもちろんハイゲンスでしょう。そんな望遠鏡でアルビレオを見てみたいなぁ、と思います。