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山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月14日(木) 14:53
by Tanko
貼付の写真は「中村要と反射望遠鏡」(冨田良雄、久保田諄)に掲載されているもので、京大天文台のザートリウス18cm赤道儀ドーム前で撮影された記念写真です。
前から、中段右端の人物がひょっとしたら山崎式コメットシーカーの考案者の山崎正光氏ではないかと、ずっと気になってました。
山崎氏は京都大学には、ごく短い間しか在籍していなかったそうなので、あんまり確信はありませんでした。
しかし最近、国立国会図書館の検索システムを利用し、1920年代の天界記事などから、舞台の年代を調べてみたところ、

・山崎氏の京大在籍期間は1923年4月~同年12月。
・写真説明に「上田助教授」とあるが、上田氏が「助教授」の肩書で天界に登場してくるのは1923年からで、1922年は「学士」との肩書である。
・他の集合写真には大体登場している山本一清博士が写っていない。山本博士は1922/4~1925/3の間、海外赴任している。
・中村要氏が随分と若い。和服姿であることからも、1921年(17歳)に京大に助手として採用となってからあまり年月が経っていないころのよう。

以上より、写真が撮られたのは1923年あたりではないか。
1923年ならば、山崎氏が写真の中に居るほうが自然、と推定してみました。

下記リンクには山崎氏の後の職場(水沢緯度観測所)での集合写真がありますが、雰囲気がよく似ているように思えます。気のせいかな。
http://ilc.tankonews.jp/modules/d3blog/ ... ate=201703

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月16日(土) 10:25
by ひぽぽたます
Tanko様

こんにちは。初めまして。
当該本は、当方も読んだことがありましたが、ご推察通り、山崎式の山崎氏本人の様ですね。
当方、既に、処分済本の為、確認する手段はありませんが、この写真の説明文とか記載はありませんでしたか?
(まあ、あれば当方も気が付いていますので、無いのだろうなぁ・・・と予想しておりますが)

確か、2000年初頭前後の本だったと記憶していますがなかなか古本でもお目にかかれない書籍です。
機会があれば、もう一度、読み返してみたいものです。
なお、今は、[反射望遠鏡 中村要著]の状態良好本を探していますが、状態が悪くても10,000円位とお気軽に手を出せません。
再販してくれないかなぁ・・・。

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月16日(土) 17:46
by (^0^)コメト
Tankoさん、ひぽぽたますさん、こんにちは

山崎正光氏は京大から東大に移籍したと伺っており、同時に水沢緯度観測所に
勤務となった由だったかと思います。(^0^;

(^0^)の手持ちの書籍には幾度か登場しますが、知られているものは近影
が多く、中でも『未知の星を求めて』にある晩年の印象が強くあり、今回の
京大時代の写真は貴重と思います。

『引き継がれるロマン』~山崎鏡復元奮戦記~には何コマか写真が存在しており、
モザイク風にまとめるとこんな処となります。(^0^v
尚、この著作は徳王子天体観測所運営委員会によるものですが、望遠鏡自体が
全壊し、緯度観測所旧館(木村榮記念館)に鏡面だけが保存されており、団体の
実在が疑わしいので断りも無く既存の文献だけを参考にさせて頂きました。

氏は米国仕込みの観測術と実用を目指した自作のコメットシーカーを活用されて
クロメリン彗星(27P/Crommelin)を独立発見された事で知られている。
また、服装からも知れるようにかなりのモダンボーイだったようで、晩年の凛と
した姿からも当時の活躍が偲ばれます。

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月16日(土) 22:19
by Tanko
ひぽぽたますさん、(^0^)コメト さん、こんばんは。
残念ながら、この写真の説明文は脚注にある図1.8のものだけで、山崎氏についての記載はこの写真の頁近辺にはありませんでした。
「第1章生涯」の1.3.宇宙物理学教室の章以降で、中村要が1921年に助手となってからの出来事が年単位で経時的に記述されているのですが、山崎氏が初めて登場してくるのは1.4.花山天文台の章となる1930年です。
「水沢緯度観測所の山崎技師が花山天文台を訪問。山崎は、1920年から翌年にかけて「天文月報」に反射望遠鏡の製作法について記事を執筆し、要に大きな影響を与えていた。」との記載があります。ただ、脚注で「1921年帰国後新城の招きで4月から12月末まで京大講師、その後水沢緯度観測所の技師となった。」とあるのは、1923年の誤りですね。別の箇所にも同様に同じ年数の誤記がありました。
ひょっとすると、著者らは山崎氏の京大在籍を1921年と認識していて、この写真が1923年のものであることから山崎氏が写真の中にいるとは思わなかったのかも知れません(だいぶと妄想が膨らんでおります)。

山崎氏は米国で長く生活していたことから、自由奔放な気質があったのでしょうね。緯度観測所の所長とは反りがあわなかったようで、どの書物の文章だったか失念しましたが、「所長は外面はよいが、人間性は好かん」というような意味のことを堂々と書いてました。土佐人気質と米国仕込の両方の気質が混じり合っていたのかも。

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月17日(日) 12:48
by 青色つきこ
Tanko 様、みなさま こんにちわ。

読む側も、自分で考えながら読む必要がありそうですねぇ。
この類いの書籍は再販増刷される可能性は低いでしょうから、著者自身が気づいていたとしても、訂正を言及する場所が
なければそのままになってしまいますねぇ。
 
山崎正光氏については、児玉様が「星空の逸品」に「異色の天文学者・山崎正光」として連載中で、私も毎回楽しみに見
ています。
「中村要と反射望遠鏡」、「引き継がれるロマン」は既に絶版なので未見ですが、いずれ読んでおかなければいけないと
思っている本です。

山崎正光氏について、今回、取り上げられたので、参考までに、いままで思っていたことを記しておきます。

「引き継がれるロマン」には、池田徹郎氏が1955年に岩手新報に書いた「山崎氏の反射鏡」という記事が掲載されており
緯度観測所当時に山崎氏が使っていた望遠鏡が前沢小学校に寄贈されている旨が書かれているようです。
(児玉氏の「異色の天文学者・山崎正光(第一部)No.1 11/13より)

池田氏の「めたせこいや 池田徹郎随筆集」1976には同内容の記事が掲載されており、1955年に岩手日報に掲載された旨
が明記されています。当時、池田氏は岩手日報の夕刊の「番茶煎茶」と題されたコラムに記事を書いており、その中の一
つが山崎氏のものでした。(岩手日報、確認済)
岩手新報と岩手日報の両方に同じ内容の記事を書いていたことになりますが、それを肯定するのも如何なものか。
部数的には岩手日報の方が多く、岩手新報とするのは誤謬の可能性が大きいと私は考えています。
もしかしたら、岩手新報が再掲したのか。でも、なお疑問!
岩手新報と岩手日報とではタイトルが微妙に違います。
そこに「引き継がれるロマン」を読んで見ないといけないと思っている原因があります。

池田徹郎氏は長く緯度観測所に在職されており、かって緯度観測所にあった五藤光学の六吋屈折望遠鏡のことがどこかに
書かれていないか調査しておりました。
1951年秋には、小島修介氏が修理の為に緯度観測所を訪れています。
残念ながら池田氏の書いたものには、手がかりはありません。
因みに、1936年の日食では、小島修介氏は村上忠敬氏の助手を務めており、上掲の集合写真では村上忠敬氏の真下に写っ
ています。

もう一つ、すっきりしなかったのは、なぜ、前沢小学校に寄贈されたのか。どうして、小学校に?、誰が使うのか。
これも「引き継がれるロマン」を見てみたい一因だったのですが、こちらについては納得できましたので、いまは確認の
意味でしかないのですが。
昭和17年当時、前沢小学校には山崎正光氏と親交があった方が勤務されており、その方はいわゆる池田教室の一員でした。
池田徹郎氏が空き時間に数学等を教えていたそうです。石川栄吉氏(緯度観測所⇒岩手大学)の随筆に散見されます。
なお、その方が前沢小学校の記念誌に寄稿された記事の中に、山崎正光氏のその望遠鏡についての記載があります。
今となっては確かめるすべは児玉氏の手元にある山崎正光氏の日記に記載あるかどうかくらいでしょうか。
その意味でも「異色の天文学者・山崎正光」の今後の展開を注視しています。
思うに、なぜ山崎正光氏が望遠鏡を置いていったのか、交流のあった旧制盛岡中学校天文同好会に寄贈すればよかったのに。その方も昭和17年に前沢小学校を離任されているのですが、その方も自身の離任がわかっていたので、敢えて前沢小学校に
寄贈となったのかもしれません。
昭和30年暮れに、再整備されるまで使用されずにいたことに対し、その方は(望遠鏡を)自分がもらっておけばよかったと記
しています。その方の寄稿した記事は昭和30年の再整備時(行政が整備)の話です。

(修正前)
「引き継がれるロマン」は、昭和30年に再整備された後に、また使用されずにいたのを復活させた話です。
(修正後 2023.12.17)
「引き継がれるロマン」は、山崎正光氏の遺品にあった反射鏡を使用して山崎式コメットシーカーを復活させた話。

追記
コメト様の書き込みを見て、再度、「天界」に記事があったのを思い出して確認してみました。
山崎式コメットシーカーはコメト様の紹介のとおり高知にあります。

なお、前沢小学校にあった望遠鏡は、岩手県内の天文サークルの方々が、池田徹郎氏の岩手新報?に載った記事からその所在
を探し出し、1984年にその望遠鏡を整備して前沢小学校の校庭で「クロンメリン彗星を見る会」を開いた話でした。
二つの異なる話が、ごちゃまぜになっていました。
お詫びし訂正します。

益々、「引き継がれるロマン」を読んでみる必要性が出てきました。

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月17日(日) 13:44
by Tanko
「引き継がれるロマン」に登場してきているという山崎正光氏の反射望遠鏡ですが、その後山崎氏の故郷の高知の佐川町教育委員会で保管、展示されてきたようです。
高知のCivet氏が11年ほど前に佐川町を訪れた際のブログ記事があります。
http://uwakinabokura.livedoor.blog/arch ... 25098.html

メジャーな牧野富太郎関連の展示物の片隅で、いまでも展示されているのではないでしょうか? 多分。

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月17日(日) 15:08
by (^0^)コメト
曇天会議の皆様

前報(^0^)の山崎氏自作のコメットシーカーは記憶が曖昧であり、
ここに登場する物とはどうも別物のようです。
お詫びして訂正します。m(_ _)m

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月17日(日) 21:44
by 青色つきこ
みなさま、こんにちわ。
コメト様、こんにちわ。

再度、整理してみました。
山崎正光氏は昭和17年に緯度観測所を退官される際に自身の25cm反射望遠鏡を置いて行かれました。
池田徹郎氏の昭和30年暮れの記事では前沢小学校に寄贈されたことになっています。
(「めたせこいあ 池田徹郎随筆集」所収には岩手日報、また当該日付の岩手日報夕刊にも掲載されています)
私がひっかかっているのは、前沢小学校に寄贈された望遠鏡です。
この記事では、山崎氏が寄贈した望遠鏡が校庭に観測小屋が建てられ、整備されたので見に行くことになった
というものでした。
「引き継がれるロマン」の中ではこの記事の掲載元が岩手新報になっているとのことなので、その点を確認して
みたいのが私の興味の一つになっています。
池田徹郎氏の記事を見つけた岩手県内の天文サークルの方々が前沢小学校に現在もその望遠鏡が保存されている
のを知って、クロンメリン彗星の回帰に合わせて1984年に望遠鏡を整備して前沢小学校の校庭で観望会を開いた。
その観望会の記事は岩手日報に載っているとのことです。
「引き継がれるロマン」は山崎氏の遺品にあった20cm反射鏡をもとに四国のアマチュア天文家が山崎式コメット
シーカーを復元したという話で、直接、前沢小学校の望遠鏡とは関係はありませんでした。

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月18日(月) 00:48
by ガラクマ
 2016年に山崎氏の望遠鏡を水沢で拝見しました。
経緯も説明書にありました。これでしょうか?

Re: 山崎正光氏が写っている?

Posted: 2023年12月18日(月) 22:33
by 青色つきこ
ガラクマ様、みなさま こんばんわ。

前沢小学校に寄贈されたのは、まさしく、これでした。
確かに経緯が説明されています。

私も、水沢に行った際に、これ、見てました。
写真も撮りました。
当時は山崎氏の望遠鏡か、くらいにしか気に留めていませんでした。
それよりも、屋外の片隅にあった赤道儀の方が気になっていましたが、この望遠鏡の架台と思います。