Re: COPITAR T-705D
Posted: 2024年6月17日(月) 22:01
みなさま、こんにちわ。
さとう様、ごもっともな疑問ですねぇ。私も、どうしてなのか疑問です。
以前の古スコ広場でも同機の絞り環についての投稿がありましたねぇ。
minoru様、鏡筒内の絞り環は、どの辺にあるのでしょうか。
本来あるべき位置より対物レンズ寄りと思ってよろしいでしょうか。
映光社の6T430は6T450に名称が変更になり、要するに値上げしたのですが、6T600に併売して引き続き販売されていました。
6T600は6T450よりも後から出てきたもので、目盛環付きでアイピースもより高級品が付属し、ファインダーも40mm 10×に
なっています。
見て分かるように6T600はファインダー脚が鏡筒に直接ネジ止めで付けられています。
そのことから、ひとつの推測としては、鏡筒にファインダー脚を直接ネジ止めするためには、本来の鏡筒内の絞り環の位置
に不都合があり、そのため、えいとばかりに、その位置をずらしたのではないでしょうか。
東邦光学工業には、少なくとも6T600の販売を開始するにあたって、きちんとした設計ができる方がいなかったのではない
でしょうか。
6T430にしても、Swift 831にしても、ファインダーはバンドを介して取り付けられています。
Swift 831に比較すると6T430のバンドはチープです。
バンドはSwift 839(60mm屈赤)の流用と考えられます。
映光社の型番の取り方ですが、TはTelescopeから、下三桁は価格からでこれは問題ないと思いますが、問題は最初の6です。1969年頃に6からSに変わりますが、私は昭和36年からきているのではないかと考えています。
本格的に天体望遠鏡を販売し始めたのが昭和36年だったのではないでしょうか。
高橋製作所の1950年代については、前にも書き込みをしていますので、その後にわかったことを追記しておきます。
高橋製作所が加入していたのは板橋合金鋳造工業協同組合で、1958年頃の組合員数は約30社です。
板橋合金鋳造工業協同組合は1952年に設立され、高橋喜一郎氏は1959年頃から一時期役員を務められていました。
ついでに、映光社が加入していたのは東京望遠鏡協同組合で、宮川正氏は1960年代には理事長になっています。
私は、エイコー(1962年頃に映光社から改名)の協力会社的な要素も持っていたように考えています。
管見の限りでは、エイコーの会社更生とともに消えたようにみえます。
なお、エイコーの経営は千葉光学硝子が引き継ぎ、現在のミザールテックにつながります。
さとう様、ごもっともな疑問ですねぇ。私も、どうしてなのか疑問です。
以前の古スコ広場でも同機の絞り環についての投稿がありましたねぇ。
minoru様、鏡筒内の絞り環は、どの辺にあるのでしょうか。
本来あるべき位置より対物レンズ寄りと思ってよろしいでしょうか。
映光社の6T430は6T450に名称が変更になり、要するに値上げしたのですが、6T600に併売して引き続き販売されていました。
6T600は6T450よりも後から出てきたもので、目盛環付きでアイピースもより高級品が付属し、ファインダーも40mm 10×に
なっています。
見て分かるように6T600はファインダー脚が鏡筒に直接ネジ止めで付けられています。
そのことから、ひとつの推測としては、鏡筒にファインダー脚を直接ネジ止めするためには、本来の鏡筒内の絞り環の位置
に不都合があり、そのため、えいとばかりに、その位置をずらしたのではないでしょうか。
東邦光学工業には、少なくとも6T600の販売を開始するにあたって、きちんとした設計ができる方がいなかったのではない
でしょうか。
6T430にしても、Swift 831にしても、ファインダーはバンドを介して取り付けられています。
Swift 831に比較すると6T430のバンドはチープです。
バンドはSwift 839(60mm屈赤)の流用と考えられます。
映光社の型番の取り方ですが、TはTelescopeから、下三桁は価格からでこれは問題ないと思いますが、問題は最初の6です。1969年頃に6からSに変わりますが、私は昭和36年からきているのではないかと考えています。
本格的に天体望遠鏡を販売し始めたのが昭和36年だったのではないでしょうか。
高橋製作所の1950年代については、前にも書き込みをしていますので、その後にわかったことを追記しておきます。
高橋製作所が加入していたのは板橋合金鋳造工業協同組合で、1958年頃の組合員数は約30社です。
板橋合金鋳造工業協同組合は1952年に設立され、高橋喜一郎氏は1959年頃から一時期役員を務められていました。
ついでに、映光社が加入していたのは東京望遠鏡協同組合で、宮川正氏は1960年代には理事長になっています。
私は、エイコー(1962年頃に映光社から改名)の協力会社的な要素も持っていたように考えています。
管見の限りでは、エイコーの会社更生とともに消えたようにみえます。
なお、エイコーの経営は千葉光学硝子が引き継ぎ、現在のミザールテックにつながります。